2012年03月11日

科学を偏重して宗教を軽視することは、もうやめよう

本日でちょうど東日本大震災から一年が経過します。被害に遭われた犠牲者の方々にお悔やみ申し上げるとともに、被災者の方には一日も早い復興をお祈りします。

今回の震災をきっかけに、多くの人々が「生きること」や「幸せ」といった概念の意味を改めて考えることになったのではないかと僕は考えています。特に、大地震に端を発し今なお多くの人々を不安へと陥れている福島の原発事故は、科学に依存する社会の限界を象徴する出来事ではないかと感じています。科学技術の発展は僕たちの生活を豊かにしてきました。科学はこれまで不可能と考えられていた多くのことを可能なものへと変えてきた人類の素晴らしき叡智です。しかし一方で、それは人間の手を離れ、人間がコントロールすることのできないまでに強大な力へと成長する恐れもあるのだということを知らしめたのが今回の事故ではないかと僕は考えています。
こうした時代では、科学の力を利用する僕たち一人一人の人間が、「科学を発展させながら幸せに生きていくにはどうすれば良いか」といった命題を見つめ、しっかりとした倫理観や道徳観をもってその力を扱うことがより重要になってくるのではないでしょうか。そして、僕はそれを考える思考力の源となるのは宗教観であり、それこそが今の日本人に最も足りない「生きる力」なのではないかと考えるようになりました。

今日は先日発見したある動画を起点として、僕が今関心を寄せている「宗教」と「二元論」について現時点での僕の考えを忘備録も兼ねて記事にまとめたいと思います。

・・・あまりにも長くなってしまったので、最初に結論であるまとめを貼っておきます(^_^;)それについて色々と述べたあとで、同じ文章を最後にもう一度記しておきます。欧米式ですね。
長すぎるよ!という方、ごめんなさいw 言いたいことを書いていたらこんな長さになってしまいました。↓のまとめを読んで興味が湧いたらお付き合いいただけたらと思います。

まとめ
科学的価値観に頼った僕たち(特に日本人)は、物事を「正しい・間違っている」といった二元論で考えがちで、常に何か一つの答えを求めようとします。しかし、そうした考え方だけに頼っていては、答えの存在しない「倫理」「道徳」「幸せ」といった、豊かに生きるために僕たちが本当に向き合わなければならない概念について考えなくなってしまうのではないでしょうか。どこまでも発展を続ける科学の力を上手に活かしながらも、その価値観を客観視し、何が大切なのかを考え、その力に歯止めをかけること。それを可能とするのが、宗教的価値観ではないでしょうか。科学的価値観と対にして宗教的価値観を尊重し、その二つの力を組み合わせながら生きていくことが、これからの僕たちには必要なのではないでしょうか。そのことを、多くの人に知って考えてもらいたいと思いました。そしてこれが今の僕が考えている宗教に対する見方です。

アメリカの子供たちが凄い
先日、ニコニコ動画でとても面白い動画を発見しました。”Kids React"というシリーズの動画で、アメリカの低学年の子供たちにインターネットや現実で話題となっている映像やニュースを見せてその反応を楽しむというものです。もともとはYouTubeに投稿された海外の動画ですが、ニコニコ動画では有志の手で日本語字幕がつけられていてわかりやすくなっています。今日紹介したいのはその中の二つ、"K-POP"と"Hatsune Miku"です。ニコニコ動画ではそれぞれ「K-POPを見たアメリカの子供たちの反応」「初音ミクを見た海外の子供たちの反応」というタイトルになっています。

※最初はコメントを非表示にして視聴することをお勧めします。




この動画を見てまず最初に驚かされるのが、アメリカの子供たちの自由闊達な発言とそれぞれのしっかりした意見ですよね。中には大人でさえ思いつかないようなとても鋭い意見も出されていて感心させられます。こうした子供たちの発言の姿勢は日本の同年代(というより、中学生・高校生でもそうでしょうが・・・)の児童たちには絶対に見られないのだろうなぁ、ということを視聴していて強く感じました。日本人と欧米人のコミュニケーション能力について語られる時、日本人のディベートの弱さが度々指摘されますが、それは幼少時から既に表れているのだということを思い知らされる動画です。特に、自分の主義・主張を持ったうえで、その視点にとらわれずに冷静に相手の立場から物事のメリットとデメリットを想像できる思考力は大人でもそう簡単に持てるものではないでしょう。

芸術と科学と宗教と
彼らの思考力にはとても驚かされますが、一方で、僕が初めてこの動画を視聴した際に一つの反論として疑問に思ったことがありました。それは、「どうして科学的なアプローチで音楽を制作してはいけないのだろう?」というものです。上に紹介した二つの動画では、どの子供達もK-POPと初音ミクの手法に好意的とは言えない反応を示していました。「いい音楽はいい音楽だ」と主張した子供もいましたが、「操り人形じゃないか」だとか、「人間の立つべき場所を奪っている」といった否定的な意見の方が多かったように感じられます。ここで注意する必要があるのは、彼らが否定的なのはK-POPや初音ミクといったコンテンツそのものではなく、あくまでそれを実現する「事務所によるトレーニング」や「プログラムによる音楽の製作」という手法だということです。

僕がここで言う「科学的なアプローチ」とは綿密な計算やマーケティングなどに基づいた音楽制作やアピールのことです。「人数が多ければそのうちの誰か一人は必ず気に入ってもらえるだろう」といった狙いで大所帯のアイドルを結成するやり方なんかがこれに当てはまります。歌い手の姿からその声まで全てをコンピューターで作り上げた初音ミクはその最たる例と言えますね。これらの手法が熱狂的なファンを生み出すまでに成功を収めているのは、動画の中でも指摘されている通り、プロデューサーといった「仕込み」がいるからですね。「仕込み」の人は、大衆あるいはターゲット層がどのようなキャラクターや音楽を好むかを徹底的に分析しているのです。そうした科学的アプローチの対極にあるのが、「センス」や「才能」といった要素です。これらは「感覚」と同じで他人には理解することのできない非科学的な要素であり、科学に対する宗教であると言えます。動画の子供達が重要視していたのは、つまり宗教的価値観だと言えます。

K-POPや初音ミクを愛するファンを除いて、この動画の中で出された子供たちの意見には恐らく僕たち日本人も多くの人が同意するのではないかと思います。今、この動画を見たあなたはどうでしたか?彼らの意見とはつまり、音楽とは何か崇高な領域で、そうした領域ではセンスや才能といったものが最も力を発揮されるべきで、そして最も評価されるべきである、といったものです。これは音楽に限らず芸術と呼ばれる全ての分野で広く一般に共有されている考え方ではないでしょうか。こうした分野では、スカウトによる集団訓練やコンピューターテクノロジーをフルに駆使した創作活動を行うことは良くない、芸術的ではない、というのが彼らの、そして僕たち一般の拒否反応の根底にあるものだと考えられます。一言で言えばつまり、「科学的だからなんか嫌だ」ということですね。「夢がない」といった言い方もできそうです。これは消費者である僕たち一般人のいわば幻想に近い考え方で、実際には作り手であるプロの中には科学的アプローチを実践している者が多く存在しているという事実は、少し考えれば想像できることです。上で説明した「仕込み」の人もそうですし、絵画の分野では光学や色彩理論を応用した作品もあります。詩や音楽に見られる、韻を踏むことでリズムを良くする作詞法なんかは「言葉の科学」と呼ばれたりしますね。

ジョルジュ・スーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」
ジョルジュ・スーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」.jpeg

宗教的価値観と科学的価値観のバランス
子供達に対する「なぜ科学的アプローチはダメなの?」という僕の反論の根拠は、「だって僕たち科学の世界に生きてるじゃない!」というとてもシンプルなものです。「宗教的アプローチも科学的アプローチも、両方OKだと考えるべきじゃないの?」というのが最初に動画を視聴した際の僕の率直な感想でした。誤解しないでもらいたいのは、僕がこの記事で言いたいことは、何も「科学的アプローチを認めるべきだ!」ということでもなければ、動画の子供たちの意見を真っ向から否定したいわけでもないということです。むしろ、これから述べることは逆です。

アメリカは成人人口の70%以上が宗教を信じている国です。それに対して日本はどうでしょうか。文部科学省の調査では、日本の宗教信者数は総人口の二倍にも上るというとんでもない結果となっています。そのため、正確な数字でアメリカと比較することができないのが残念ですが、クリスマスやバレンタイン、初詣といった宗教行事があるものの、普段から教会やお寺に通う人はあまりみかけませんし、身近にも聞いたことがありません。生涯に渡る信仰というレベルではごく一部を除いて殆ど根付いていませんね。そういう意味では、日本には宗教は存在していないとさえ言えます。このことを考えても、アメリカ人は少なくとも日本人よりは、科学的価値観と宗教的価値観を併せ持った考え方ができるように思われます。それにもかかわらず、僕がこの動画を視聴していて奇妙に感じたことは、その両方のやり方を尊重するのではなく、センスや才能といった宗教的アプローチ一辺倒しか認めない点でした。

今日の世界に生きる僕たちは、人種や国籍を問わず、どこにいても科学の世界にどっぷりと浸かっていて、日常のあらゆる活動の中でその恩恵に浴しています。それにもかかわらず、なぜ僕たちは芸術となった途端にその事実を忘れ、突然、非科学的・宗教的要素を重視しようとするのでしょうか。むしろ、どちらか一つを取捨選択するのではなく、その両方の価値観を尊重するべきではないでしょうか。これが、僕が言いたいことの根幹です。

もしかしたら、現代に生きる僕たちは科学と宗教のそれぞれの価値観の間でバランスを大きく見失ってしまっているのではないでしょうか。現代では、どう考えても発展の留まるところを知らない科学が、宗教に対して圧倒的優勢を誇っていると言えます。そのような社会で、僕たちはどちらか片方、それも科学を偏重しているのではないでしょうか。僕が特に不安を抱いているのは、宗教的価値観が尊重されているアメリカといった諸外国の人々と異なり、日本人は科学的価値観しか持っていないという点です。宗教的価値観と科学的価値観のアンバランスさという意味では、日本は諸外国よりも更に科学を偏重していて、その価値観に依存しきっているのではないでしょうか。

こうしたことを見つめる過程で僕が行き着いた考えは、「科学に依存してしまうと、知らず知らずのうちに全てにおいて二元論的思考で考えるようになってしまうのではないか?」ということです。

宗教と科学
二元論とは、大雑把に言うと「善か悪か」「高いか低いか」といったように、何か一つの基準を当てはめて物事をキッパリ二つに分けて判断する考え方のことです。僕は、これからの時代ではこうした二元論的思考回路からの脱却を図る必要があるのではないかと考えています。なぜなら、それこそが僕たち日本人が長年に渡って宗教を無視し、科学を偏重してきた結果、いつのまにか思考回路にセットされてしまった科学的価値観の副作用だと思うからです。それを説明するために、宗教と科学の歴史を簡単に説明します。

宗教も科学も、その最も基本的な目的を「世の中の出来事を人々が理解できるように説明する」ことに置いた点でその起源は一緒です。違うのはそのやり方です。実際には、科学をはじめとする全ての学問は哲学から派生していて、その哲学は宗教から生まれています。

宗教は、まだ文明が発達していなかった古い時代に、人々が安心して暮らせるように神話を用いることで世の中の現象を説明しました。その時代には技術なんて何もありませんから、雷や雨といった自然界のメカニズムなど、身の回りの現象について誰もわかりません。そこで、雷に怯える村人たちには、誰か賢い人が「雷が鳴るのは神様であるゼウスが怒っているからだ。神様を怒らせないように、悪い行いをせずに慎ましく生きていこう」みたいなことを適当に言っておけば、人々は安心して暮らせるようになりますね。信じてさえいれば、人々は皆同じルールの下で生きるわけですから、お互いを傷つけ合うことなく秩序のある安定した社会が構築できるようになります。

ところが、宗教による社会構築は、異民族には通用しません。ルーツが違う彼らはまた別の宗教を信じているわけですから、信じられるわけがありません。これは現代でも同じですね。信仰を背骨にした社会構築は、一旦築いてしまえば強力だけれども、信じない人には全く作用しないという弱点もあります。時代が下り民族が移動するようになると、異なった人種が共同の社会を営むようになります。その結果、宗教によるルール作りに限界が生じてきます。そこで、人々は民族が違っても同じルールが適用できるように、論理的に言葉で物事を説明することを試みました。「神様とは何か?」みたいなものです。それが哲学といった諸学問の始まりです。言葉できちんと説明されれば、たとえ民族が違っていてもそのルールは理解できますね。この理念が発展していき、「雷とは雲と地面の間に生じる放電現象だ」といったような科学をはじめとする学問の誕生につながっていったわけです。

宗教に対して、科学は言語・文化・人種・性別・国境を超えた理解を可能にしたわけです。話す言葉はそれぞれ異なるので翻訳が必要ですが、翻訳さえすれば誰でも納得できます。「雷とは何ですか?」という問いに対して「ゼウスの怒りです」と言えば納得できる人は限られますが、「雲と地面の間に生じる放電現象です」と説明すれば誰でも納得できます。時には実験して証明することで、その論理が客観的にみても正しいことを主張します。つまり、宗教と違い科学は誰にとっても一つの明確な答えを示すことができるのです。これは大変強力ですね。

つまり、もともと宗教と科学は一体だったわけです。ところが、その事実を無視し科学的価値観だけに依存するとどうなってしまうでしょうか。「世の中に存在する問題には必ず一つの答えがある」と思うようになってしまうのです。そして、それが上で述べた「科学的価値観の副作用」、二元論なのです。「これは正しい」「これは間違っている」と考えるようになってしまうわけです。

逆説的になりますが、K-POPや初音ミクに対して僕たちがその科学的なやり方に嫌悪感を見せ、センスや才能といった宗教的価値観をいきなり持ち出そうとするのも、「どちらか一つだけが正しい」という二元論的思考の症例だと言えます。両方を尊重することができなくなってしまうのです。科学を過信し科学に依存する世界では、僕たちは全ての価値観と判断基準の拠り所を科学に寄せています。その結果、全ては択一でそれ以外は常に排除されなければならないという二元論で物事を判断するようになってしまったのではないでしょうか。

宗教的価値観の重要性
しかし、今の世の中に「誰にとっても正しい」という一つの明確な答えは存在するのでしょうか?経済やインターネットの発展によって、個人の与えられた選択肢と可能性はとても大きく、多種多様なものとなりました。そうした時代においては、科学的価値観がもたらす明確な答えというものはもはや存在しないのではないでしょうか。答えが出されたとしても、それに疑問を投げかける声がかならず登場します。今の時代は、一人一人が物事の持つ意味と答えを自ら考えなければならない時代になっています。そして、そうした時代で生きるには宗教的価値観を養うことがとても大事だと僕は思います。
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この記事の冒頭で、僕は東日本大震災が多くの人にとって「生きること」や「幸せ」について改めて考える機会になったのではないか、と述べました。試しに考えてみましょう。「幸せ」とは何でしょうか。健康な生活を送れることでしょうか?中には、愛する家族と笑顔で過ごせれば幸せという人もいるかもしれません。では家族がそばにいれば食べ物は必要最低限でもよいのでしょうか?また、「愛」という言葉を使いましたが、その答えも一人一人違うはずです。誰かを想う気持ちも「愛」ですし、想われる気持ちもまた愛でしょう。誰を想うかによってもその形は違いますね。男女の恋愛もあれば、親子愛、兄弟愛なんかもあります。

僕は、世の中のあらゆる問題は、その根本原因を突き詰めていけば必ず宗教的概念に行き着くと考えています。なぜなら、僕たちは誰もが「幸せになりたい」と思う気持ちを持って生きているからで、社会に存在する問題とは、その願いとは反対に人々を不幸にしている問題だからです。そして、その「幸せ」という概念は、非科学的、宗教的です。つまり、僕たちは宗教的価値観をどこかで重視しながら生きているわけです。それにもかかわらず、科学的価値観を偏重している僕たち日本人は、「宗教」という二文字を目にするだけで、生理的なまでに眉を細め激しい嫌悪感を示します。そして、そこに書いてある言葉を全てシャットアウトし、一切受け入れないように身構えます。これでは、何が大切なのかを見落としてしまうのではないでしょうか。

一つ、興味深く思った2ちゃんねるのまとめ記事を引用します。

VIPPERな俺 : 創価学会ってなにが悪いの?
http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/4069247.html

この記事の中で、「勇気のある人は幸福」という某宗教団体の言葉が唾棄されていますね。僕は、この言葉はあながち間違ってはいないと思います。たとえば、自分の身の置かれた辛い状況を変えるには「変える」という勇気が必要です。それを決意するには大きな覚悟やエネルギーが必要ですが、一度その決意が固まれば、たとえ失意や絶望のどん底にいたとしても、その人は「現状を打破する」という「目標」を持つことができるようになります。目標を持つことができれば、人は辛い状況にいても前向きに生きることができます。「俺って何のために生きているんだろう」と思っていた人が存在意義を獲得できるようになるのです。だから、「勇気のある人は幸福」という言葉は、僕は間違いだとは思いません。

科学的価値観だけに頼った思考は、宗教のもたらす価値観を排除し、僕たちを「倫理」や「道徳」、そして最も大切な「幸せ」といったものから遠ざけてしまうのではないでしょうか。この震災をきっかけに、今後、多くの人々が自らの「幸せ」といった概念について考えることが大事で、それが今後の日本に必要なことではないかと感じています。そうすることで、これからは違う行動を取ることができるからです。逆の言い方をすれば、今の日本が科学的価値観だけに頼り続けた結果だとすれば、今後は宗教的価値観も大切にしていかなければ、また同じ過ちを繰り返してしまうかもしれません。

僕が言いたいことは、「宗教を信じなさい」というわけでも、上にあげた学会の存在意義を主張することでもありません。僕自身、これからの人生でどの宗教を信じることになるのかわかりませんし、もしかしたら、典型的な日本人らしくどの宗教も信じないまま生涯を終えるかもしれません。ただ、こうした概念について、自分自身にとっての定義をこれからは一人一人が見つめ直し、おぼろげなイメージをはっきりさせていく思考力が必要になってくるのではないかと思います。それらを考え、生きる力へと変換していくために、宗教的価値観は決して否定してはいけないということです。

まとめ
科学的価値観に頼った僕たち(特に日本人)は、物事を「正しい・間違っている」といった二元論で考えがちで、常に何か一つの答えを求めようとします。しかし、そうした考え方だけに頼っていては、答えの存在しない「倫理」「道徳」「幸せ」といった、豊かに生きるために僕たちが本当に向き合わなければならない概念について考えなくなってしまうのではないでしょうか。どこまでも発展を続ける科学の力を上手に活かしながらも、その価値観を客観視し、何が大切なのかを考え、その力に歯止めをかけること。それを可能とするのが、宗教的価値観ではないでしょうか。科学的価値観と対にして宗教的価値観を尊重し、その二つの力を組み合わせながら生きていくことが、これからの僕たちには必要なのではないでしょうか。そのことを、多くの人に知って考えてもらいたいと思いました。そしてこれが今の僕が考えている宗教に対する見方です。


posted by ないちゃー at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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